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コラム

2020/08/01
何度も読み返した小説やマンガ、学生時代に読み込んだ教科書、人生を変えた一冊など、東海大学の先生方が大切にしている本を紹介します。

『ハーメルンの笛吹き男―伝説とその世界』


「伝説」の発端は素朴で単純
文学部歴史学科西洋史専攻 三佐川亮宏 教授

 


1284年、北ドイツの小都市ハーメルンは、大発生したネズミの被害に苦しんでいた。困惑した市当局は、放浪する一芸人に駆除を託した。男が笛を吹くと町中のネズミが群がり集まり、男はヴェーザー川の中へと歩いて入って行き、見事にすべてを溺死させた。そこで男が約束通りの報酬を要求すると、当局は理屈をつけて拒絶した。すると男は6月26日、今度は恐ろしい顔をした狩人の出で立ちで町に再び現れ、笛を吹き鳴らした。ところが町中から集まってきたのは、今度はネズミではなく子供たちの群れであった。130人の子供たちは笛吹き男の後を夢中でついて行き、ある山に着くと、男もろともほら穴の中に消え失せた……。
 
グリム兄弟の『ドイツ伝説集』(グリム童話ではない!)が伝える笛吹き男の不気味な物語は、19世紀以降、童話、絵本あるいは演劇を通じて世界中に広く知られるようになった。ただ、読者、特に幼い児童が親から与えられるのは、「約束は守らねばならない」という道徳の教科書的教訓であって、過去に実際に起きた出来事への歴史的興味ではなかったであろう。

本書は、今日まで続く社会史ブームの火付け役として知られる著者(1935年〜2006年)の事実上のデビュー作である(74年)。私が初めて手にしたのは80年、大学2年生の夏、大学近くの古書店にてであった。秋に選択する専攻(日本史、西洋史、ロシア文学)の志望をめぐり思い悩んでいた時である。気になるタイトルと素朴な挿絵、それに何よりも謎解きの面白さにひかれて、夜を徹して読み続けた。

「伝説というものはその発端をなす歴史的事件に近づけば近づくほど素朴単純な形を現してくるものである」。中途で明かされる答えも、意外なほどシンプルである。むしろ、読者が共感し魅了されるのは、事実に尾ひれがついてストーリー性のある伝説へと変容していくプロセス、そして遙か彼方のヨーロッパ中世社会に逞しく生きた我々と等身大の庶民に対する、著者の常に変わらぬ温かな眼差しであろう。

7年後の夏、大学院に進学していた私は留学生としてドイツに旅立った。さっそく日曜日にハーメルンを訪れると、広場では大勢の観光客を前に地元の子供たちがネズミに扮して劇を演じていた。帰りしなに歴史博館に立ち寄ってみた。すると、多くの資料と並んで本書が展示ケースの中央に立てられているのを見つけた。その時不意に、自分の研究の原点を再発見したような思いに襲われた。

『ハーメルンの笛吹き男―伝説とその世界』
阿部謹也著
ちくま文庫

 

みさがわ・あきひろ 1961年札幌市生まれ。北海道大学大学院博士課程中退。2018年に『ドイツ史の始まり―中世ローマ帝国とドイツ人のエトノス生成』で第108回日本学士院賞を受賞。20年度から大学院文学研究科研究科長。

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