share

コラム

2014/11/01
何度も読み返した小説やマンガ、学生時代に読み込んだ教科書、人生を変えた一冊など、東海大学の先生方が大切にしている本を紹介します。

『キャッチャー・イン・ザ・ライ 』


美しい瞬間
文学部英語文化コミュニケーション学科 楢崎 健 教授




人生のためにとか、先人から学ぼうとかいえる器ではないので、僕はただ美しい小説を紹介したいと思う。

サリンジャーが書いた『キャッチャー・イン・ザ・ライ』という小説がそれだ。さりげなく描かれるほんの一瞬が、なんともいえず美しい。物語の中で、作者はそんな瞬間をいくつもつくり出してしまっている。これはちょっと奇跡的なことなんだ。

僕が初めてこの小説を読んだのは大学に入って間もないころで、最初は主人公のホールデンに寄り添いながら読んでいた。高校2年生のホールデンは、成績不振で3度も退学になっていて、大好きだった弟は白血病で亡くなり、母親はノイローゼ気味という、大ピンチなやつだった。

でも何度か読んでいるうちに、僕の心に残っているのは、ホールデンの悩みや苦しみではなくて、いくつかの美しいシーンだということに気づいた。

小説のタイトルにもなった「ライ麦畑」のシーンもその一つ。広いライ麦畑で、子どもたちが遊んでいる。ライ麦が子どもの腰の高さくらいまで伸びてくると、風が吹くとライ麦畑全体が海のように波うつようになる。1年のうちほんのひとときしか現れない、青々としたライ麦畑の海で歓声を上げながら走り回る子どもたち。見ていてうっとりするような幸福な一瞬だと思った。

小説の終わりに出てくる雨の回転木馬のシーンも美しい。色とりどりの木馬が回転する。懐かしい音楽がかかっている。かわいい小学生の妹フィービーはひと回りするごとに、外で見ているホールデンに手を振る。ホールデンはこのときいろいろな悩みを忘れ、ずぶぬれになりながら最高に幸せな気分になるんだ。

学生の皆さんも、「このときのために今まで生きてきたのかもしれない」と思うような、美しい瞬間を経験したことがあるんじゃないかな。もちろんそんな場面はたちまち過ぎ去ってしまうのだけれど、心の中ではきっと輝き続けていると思う。30年前、僕が一冊の本で出会ったあの美しい瞬間は、今でも鮮やかによみがえり、僕を幸せな気分にしてくれる。で、それが『キャッチャー・イン・ザ・ライ』というわけだ。ウソじゃないよ。


『キャッチャー・イン・ザ・ライ』
J.D.サリンジャー著/村上春樹訳
(白水社)

 
ならさき・たけし
1959年生まれ。東京大学文学部卒業。東京大学大学院博士課程中途退学。修士(英米文学)。専門はアメリカ文学。論文に「荷が重い少年」(大学院紀要)などがある。

本棚の一冊記事一覧

2021/09/01

『都鄙問答』

2021/08/01

『自分の中に毒を持て』

2020/09/01

『おめでとう』

2020/08/01

『暗夜行路』

2020/08/01

『ハーメルンの笛吹き男―伝説とその世界』

2020/08/01

『一九八四年[新訳版]』

2020/07/01

『42.195kmの科学 マ ラソン「つま先着地」vs 「かかと着地」』

2020/07/01

『シネマトグラフ覚書 映画監督のノート』

2020/07/01

『世界はうつくしいと』

2020/06/01

『宇宙のランデヴー』

2019/08/01

『予防医学のストラテジー』

2019/04/01

『殺人犯はそこにいる』

2019/03/01

『射影平面の幾何学』

2019/01/01

『源氏物語 上』 

2018/12/01

『古井由吉自撰作品三 栖/椋鳥』

2018/10/01

『出会い系のシングルマザーたち―欲望と貧困のはざまで』

2018/08/01

『現代語訳 論語と算盤』

2018/06/01

『バナナと日本人―フィリピン農園と食卓のあいだ―』

2018/05/01

『考えるヒント』

2018/02/01

『将棋の起源』

2017/08/01

『純粋理性批判』

2017/07/01

『ヨーロッパ統合』

2017/04/01

『TOKYO STYLE』

2017/03/01

『鉄道廃線跡を歩く 失われた鉄道実地踏査60』

2016/12/01

『現代・法人類学』

2016/10/01

『けっぱり先生』

2016/07/01

『陰獣』

2016/06/01

『宗教と科学的真理』

2016/05/01

『春の戴冠』

2016/04/01

『子どものからだとことば』

2016/03/01

『Principles of Chemical Sedimentology』

2016/02/01

『コンタクト』(上・下)

2016/01/01

『エンデュアランス号漂流』

2015/10/01

『マインド・コントロールの恐怖』

2015/09/01

『赤の発見 青の発見』

2015/08/01

『答えは必ずある』

2015/07/01

謎とき『罪と罰』

2015/06/01

『シルバ~アート 老人芸術』

2015/05/01

『変貌するチームリーダー』

2015/03/01

『おしゃれなエコが世界を救う』

2015/02/01

『かもめ』

2015/01/01

『経済史の理論』

2014/10/01

『愛の試み』

2014/09/01

『文明の衝突』

2014/08/01

『落日然ゆ』

2014/07/01

『ホーン岬への航海』

2014/06/01

『白鯨』(上・中・下)

2014/05/01

『電気化学測定法 上・下』

2014/04/01

『テレマン 生涯と作品』

2014/03/01

『春宵十話』