Column:Point Of View
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2017年9月1日号
なめらかな社会の不気味さ
文学部広報メディア学科 加島卓准教授

「歩いている」というより「歩かされている」と思うときがある。たとえば、駅の連絡通路。目的地は決まっているのに、こちらが思うようには歩かせてくれない。出口を間違えると、ちょっと残念な気持ちにもなる。

ショッピングモールもそうだ。買い物が終わっても、なかなか建物の外に出ることができない。出口を探せば探すほど、遠回りをさせられているような気にもなる。

こういうとき、私は「気持ち悪いな」と思う。しかし、この「気持ち悪さ」は「快適さ」とコインの裏表である。誰かのために最適化された空間が、自分にとってはたまたま都合が悪いだけかもしれないからである。

社会学者の若林幹夫は、このように最適化された空間を「なめらか」と表現している(斎藤美奈子+成田龍一(編著)『1980年代』河出書房新社、2016年)。高速道路や新幹線の建設に始まり、ニュータウンやベイエリアの開発、そしてテーマパークのようなまちづくりに至るまで、私たちは移動にストレスを感じさせない「なめらかな社会」をつくってきたというわけだ。

興味深いのは、この「なめらかな社会」が快適すぎることである。たとえば、大きな駅にあるペデストリアンデッキ。これに慣れると、私たちは改札口から直結された範囲でしか歩き回らなくなる。もちろん、デッキの下に街があるのも知っている。しかし、階段の上り下りを面倒に感じ、雨が降ったら濡れない範囲で移動をすませてしまう。

このように考えると、「なめらかな社会」はちょっと不気味だ。私たちはどこかへ「行きたい」というより、どこかへ「行かされている」可能性がある。そして、そのことになかなか気づけない。「気持ち悪さ」と「快適さ」がコインの裏表とは、こういうことである。

移動にストレスを感じさせない「なめらかな社会」は確かに快適である。しかし、こうした快適さの追求が逆に私たちから選択肢を奪うこともある。私たちは「歩いているのか」、それとも「歩かされているのか」。これを意識するだけで、いつもの風景がちょっと異なるように見えてくる。 (筆者は毎号交代します)